biography

社長の生い立ちと「家づくりへの想い」

イギリスで育った子ども時代

1970年06月22日 母の実家があった広島市で生まれる。

幼少期は東京都新宿区で過ごしていたが、
銀行員であった父の転勤によりイギリスのロンドンへ。

英語を話すことも理解することもできないまま現地の学校に入学。

名前だけは何となく聴きとれるもので、
それを聴くと悪口を言われていると思い(実際言われていた)、
毎日のように校長先生の膝で泣いているような日々。

ただ、だんだん暮らしにもなれ、
英語が話せるようになると徐々に友達も増え、
誕生パーティーにも呼ばれたり呼んだり、
公園でサッカーをしたり、
カブスカウト(ボーイスカウトのちびっこ版)に入りキャンプしたりと、
気がつけば普通に子ども時代を楽しんでいました。

親は旅行にたくさん連れて行ってくれて、
有名な西洋の城や教会を観て回ったけれども、
勿体ないことに、ほとんど心に残っていません(笑)。

ただ、どこかでスイスのアースハウス
(入口と窓以外は地中に埋もれている感じの家)
の写真を雑誌で見かけた時に、

「すごい!!!楽しい家!!!」

と感動したことはとても記憶に残っています。
(大人になってから調べると、建築家ペーター・フェッチ氏の作品でした)

当時は父の仕事の関係者を夫婦で家に招くことも多く、
母が食事の準備をしている間にお客様とお話をしていた時に、

「子どもは家事を手伝うものよ」

と言われたことを憶えています。

それがきっかけになったのか、
日曜日の朝は姉と二人で朝食当番をすることに。

目玉焼きやパンケーキ等々、
子どもなりに朝食っぽい料理だった氣がします。

二人ともわりと楽しんで作っていたのですが、
調子に乗ってパンケーキを思いっきり上に飛ばしてしまい、
天井にべちゃっとついてしまった思い出も。

親は朝食づくりをいつもとても喜んでくれていましたが、
自分が作ったもので人が喜んでくれるという楽しさは、
この時に覚えたのかもしれません。

因みに、天井に付いたパンケーキことは、親は未だに知りません(笑)。

イギリスでの最後の一年は、
日本人学校にも電車で通学していました。

いつものように電車で座っていると、

「子どもは座るものじゃない、あちらの老人に席を譲りなさい」

と教えてくれる人がいました。

家事の手伝いのことや、
席を譲ることなど、
親以外の大人も教育してくれることは、とても大切なことだと感じています。

帰国と実家のリフォーム

その後、父の転勤に伴い帰国。

帰国子女の受入れをしていた、
東京都目黒区立東山小学校に転入。

イギリスでは英語が話せずにいじめられたのが、
今度は英語なまりの日本語を話すことでいじめに。

ただ、イギリスのいじめの経験が活きたのか、
帰国子女の仲間や優しくしてくれる人に感謝したり、
闘って味方も増やしたりと、
日本の学校にも早く馴染めていきました。

そんな中、
当時住んでいた新宿の実家をリフォームすることになったのですが、
間取りを考える家族会議に加えてもらったことがとても嬉しく、
その時間もとても楽しかったからか、
小学校の卒業アルバムには、

「将来の夢は設計士」

と書かれています。

その後は順調に中学生となり、
そのまま生活も落ち着くかと思っていましたが、
中学卒業と同時にまたもや父の転勤が決まり、
オーストラリアのシドニーで暮らすことに。

再び異国の地へ

オーストラリアの家は、
どこも普通に庭とプールがついていて、
休日には近所の人を呼びあってバーベキューをしたりして楽しんでいました。

学校もなんとなく自由な雰囲気で、
授業を抜け出して友人とサーフィンに行ったりも。

先生からは、

「日本人は真面目で好印象だったのに、貴方はそれを覆している!」

とよく叱られていました。

そうやって昼間に遊んではいたものの、
夜には家で割と一所懸命勉強していたので、
実は成績は良かったです(笑)

そんなハイスクール時代で、
特に印象に残っているのが、
人生初めての珊瑚礁でのダイビング。

世界観が変わり、

「こんなに綺麗でわくわくする環境にずっといたい!」

そう心が動かされたことを憶えています。

社会人デビュー

無事にハイスクールを卒業すると、
再び日本に戻って立教大学へ。

大学時代はダンスサークルに入って、
テレビ番組に出演するほど熱中していると、
あっという間に卒業、就職に。

この頃には小学生の時の夢はすっかり忘れていて、
損害保険会社に勤めていた先輩の、

「色々な分野の知識が身について皆に頼られる」

という言葉に、

なんかイイかも

と思い、三井海上火災保険株式会社に入社。

社会人デビューして5年経った頃、
大学のサークルで知り合った女性と結婚。

一週間休みを取って、
南の島でダイビングをしまくるために、
手入れの要らない髪型にしようと自分で坊主頭にして出発。

旅行から帰った時には髪も伸びているという考えが甘かった……

坊主のまま出社。

当時は社会人の坊主はタブー。

その日のうちに本部長に呼び出され、

「サラリーマンで坊主はいねぇ!!!」

「坊主のままならノルマ割った時点でクビにしてやるからな!!!」

それ以降ノルマを割ることなく働き続けられましたが、
髪型は今現在までずっと坊主のままです(笑)

いづみ建設入社

30歳になった頃、
結婚相手がいづみ建設の初代の孫だったことで、
入社を誘われることに。

悩んだ結果、
過去の夢を思い出し、
何かの縁ということで転職を決意。

海は無いけれど、うちわ祭りがあって
緑と町のバランスがとれている熊谷が好きだったことも要因の一つ。

義父が自分たちの為にリフォームをしてくれた、
同社所有の賃貸マンションに引越し、
熊谷での暮らしがスタート。

いづみ建設で住まい造りに一所懸命に取り組むために、
社会人になってからも細々と続けていたダンスも、
さいたま芸術劇場の円形ホールで自主公演を実施して完結。

気持ちも新たな仕事に向かって切り替わり、

「さあ、やってやるぞ!!!」

ところが……

入社してみてビックリ……

いづみ建設の経営状態はボロボロ……

とても「夢を」なんて言える状態ではなかったのです。

更に引越後にじん麻疹が全身に出るようになり、
アレルギー検査をするも食品は特定できず、
会社でのストレスが原因と結論付けられることに。
(後にリフォーム工事によるシックハウスだったのではと考える)

会社では常務取締役に就任するも、
内情を更に知ってしまったので、
会社を立て直すために一緒に働いて欲しいと妻にお願い。

返ってきた言葉は、

「踊る時間が無くなる」

口論の末、
十年後から手伝うという話でまとまる。

この時は消沈し、

「とにかく会社はつぶさぬよう、自分を壊さない程度に経営していこう」

と自分に言い聞かせていました。

ただ、そんな感覚で経営に携わりながらも、
家の間取りやデザインを考え形にしていくことは、
ダンスの舞台の空間演出と似ていて、

形をこんな感じで工夫すれば、

「しっくりくる」

「カッコよくなる」

動線をこんな感じで工夫すれば、

「らくになる」

「便利になる」

と想像しながら考えることが純粋に楽しく、
徹夜しても全く苦にはなりませんでした。

そして、いつの間にか

「この仕事は楽しみながら一所懸命に考えた間取りやデザインで、
お客様に喜んでいただける素晴らしい仕事だ」

と、実感できるようにもなっていました。

そんな中、
後継ぎとして代表取締役に就任する話が。

当時の税理士からは、

「明日つぶれるかもしれない会社を、本当に継ぐのですか?」

と聞かれるも、
妻や親や親戚や子どもに、
火の粉が降りかかる様な事にならぬ為にと承諾。

代表取締役としてスタート

経営には人脈も重要と考え、
熊谷青年会議所に入会。

最終的には理事長も務めさせてもらったこの会で、
公私共に大切な人間関係を沢山作ることができ、
数々の研修や活動での気づきを通して、
経営には夢が大切だということも学びました。

そして、

「もっと世の役に立つ存在にならんと」

という気持ちも強くなり、
会社経営というものを改めて見つめ直し、
経営理念や社是を自身で考え直すことに。

人々が喜びを感じるまちづくりができる会社

穏やかな自然の中で過ごしているような住まいを提供できる会社

こんな会社を目指そう。

自宅の新築で

自分自身がアレルギーによるじん麻疹や、
花粉症に悩まされていたことから、
それらの原因調査を進めました。

自宅の新築を兼ねて、
シックハウス対策の実験。

LDKだけは珪藻土の壁と無垢の床材を使用し、
風はよく通るように設計。

室内の動線は勿論のこと、
ベランダに芝を敷いたり、
そのベランダから庭に降りていけるようにしたりと、
実験の要素満載に。

他にも家族や外とのつながりを程よくつくるにはどうしたらよいか等、
家づくりに対して色々と考える良い機会となりました。

いづみ建設で建てる家は、

「つなぐ家」

このネーミングは自然と湧き上がってきたものです。

新居での暮らしが始まると、
全身のじん麻疹に悩まされることも減り、
ずっと飲み続けていた薬をやめても、
じん麻疹は出なくなっていました。

子ども達は家にいる時、
勉強の時もほとんどLDKにいました。

居心地が良かったのだと思います。

無垢の床の肌(足裏)触りと壁の質感なども、
その理由の一つだったのだと思います。

子ども達にはアレルギー症状は出なかったので、
体感的な心地良さだけでなく、
体にも良い影響があったのだと感じています。

震災地で感じたこと

2004年新潟中越地震。

2011年東日本大震災。

青年会議所の仲間たちと共に、
新潟、宮城へ、ボランティアに行きました。

新潟では、煮炊きをして配ったものを、

「暖かいものを口にしたのはいつぶりだろう」

                   

と涙を流しながら食べてくれる現地の人の姿と、
新築の家でさえも、

倒壊の恐れがあり使用禁止

の旨の赤札が貼られていたことが、
強烈に印象に残っています。

宮城では、
小学校や民家の瓦礫撤去を手伝ったのですが、
新しい分譲地に真新しい基礎だけが残されていたのを見て、
大きな衝撃を受けました。

実際に被災された方から話を聴いて、
ショックからしばらく社会復帰ができなかった仲間もいました。

地震の脅威を完全にはねのけることはできないとしても、

「命を守るための家づくり」

とはどういうことなのかを、
改めて考え直すきっかけとなりました。

何が起こるかわからないのが人生

いづみ建設の後継ぎとなってから10年。

妻に改めてお願いをしました。

「会社を手伝ってほしい」

妻の返事は、

「そんな約束をした覚えはない」

口論になり、
拒絶され離婚することに。

元々は妻方の会社なので当然のこととして、
会社も辞めるつもりでいました。

しかし相手の両親から続投して欲しいとお願いされ、
少々いびつな関係で会社経営を継続することに。

会社経営を継続するなら、
三人の子どもを育てる時間は充分に取れないと考え、
娘達の親権と家の権利は全て妻へ。

その何年か後、
縁あって二度目の結婚をするも、
生まれた息子を連れて家出され、
そのまま調停離婚。

家づくりへの思いと挑戦

予想もしていなかったことが次々と起こり、
悶々と過ごす日々……

そんな中、
友人がある経営塾への入会をすすめてくれました。

その経営塾への入会が大きな転機に。

幼少期から今までの体験を見つめ直し、
改めて自分の使命について考え、

自分も家族も幸せになれ、
地球にも少し恩返しができる住まいをつくる会社にする

という思いに到達。

その思いと合致する、

草屋根の家

と出会うこともでき、
更にその経営塾で、
同じ方向を目指し共に歩んでくれるパートナーとめぐり逢い結婚。

会社を日々進化させつつ現在に至ります。

人というのは、
誰かとつながったり、
自然に触れたり、
大空を見上げたりすることで、
前向きになれたり、
広い視野で考え行動できるようになれる。

色んな経験をし、
色んな人の人生に触れたことで、
そのことが分かった氣がしています。

もちろん、
一人で考えを整理したり、
ただただボーっとする時間も大切。

家族とつながったり、
自然に触れたり、
一人の時間を楽しんだり。

それぞれの家族に合わせて住まいをつくり、
そこで暮らす

「みんなの喜びと元気をつくる」

これが私たちの家づくりへの思いです。

日々、技術が進歩したり、
常識が変化したりする中で、
私たちは学び続けます。

この家づくりへの思いを力に変えて、
より良い家づくりを提供できるように、
いづみ建設は努めて参ります。